富士山と樹海の出逢いを提供する冨士エコツアー・サービス 富士山おもしろ話集

富士山の面白い話を集めてみました。


富士山のおもしろ話


富士山に関係する面白い話を集めてみました。




「ふじ」の語源は?
何故『ふじさん』と呼ぶようになったのかの定説はない。アイヌ語で火の山を指す『ふんち』や『ぷし』。朝鮮語で火を意味する『ぷる』『ぷっと』。マレー語の素晴らしいを指す『ぷし』。古代日本語で斜面や垂れ下がりを指す『ふじ』。お碗を伏せる『ふせ』など、様々な説がある。そのほかにも、何故『冨士』と書くのかもよく判っていない。記録上で最も古い常陸風土記には『福慈』。万葉集では『不尽山』『不士能高嶺』『不二能嶺』。『冨士』と書かれた物は平安時代初期の続日本紀あたりが最初だと言われている。このほか『不死』『不二』とも書かれていた。
富士山は三階建て
「富士山は三階建て」と言われる事がある。今から70万年前から20万年前に一階部分である「小御岳火山」が生まれた。その後、10万年前ほど、二階部分である「古富士火山」の誕生である。以後、古富士火山は数百回の噴火、数回の山体崩壊を重ねた。現在の三階部分「新富士火山」のようななだらかな円錐形になったのは一万年前ほどだという。火山の寿命からいうと、富士山はまだ若い青年期の火山だ。最近では、小御岳以前に「先小御岳火山」と呼ばれる第四の火山があったとする調査結果も報告され、四階建ての可能性も出ている。
富士山の「富」は、ウ冠か? ワ冠か?
ウ冠の富は十二画、ワ冠の冨は十一画。陰陽の考え方では、奇数が陽となります。昔から陽は縁起が良いものとされ、現代でも「七・五・三」などに見られます。それにちなんで「冨士山」と書いた。有名な葛飾北斎の「冨嶽三十六景」は、ワ冠の「冨」。同じく北斎の「富嶽百景」では、ウ冠の「富」の字を使っています。全国にある「冨士浅間神社」は、すべてワ冠の「冨」を使っています。
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富士山が見える南限と北限は?
富士山ほどの高い山でも、さまざまな地形により、遠くても見える場所もあれば、近くても見えない場所がある。富士山が最も遠くから見える場所は、北限では、福島県岩代町の日山(標高1057m)で、富士山との直線距離は299㎞。南限は和歌山県にある那智山の妙法山(標高749m)で、富士山との直線距離は322㎞になる。ただ、ここまで離れていると、条件がよくないとなかなか視認しづらい。逆に近い場所でありながら、西湖の湖畔は足和田山が邪魔をして見えないし、甲府盆地も南部になると山にさえぎられてしまう。
富士の付く市町村は、全国に10ヶ所
富士という字が付く市町村(自治体)は、全国に10ヶ所あります。ほとんどの市町村から富士山を仰ぎ見ることができる場所にありますが、例外が二つ。北海道の「利尻富士町」と佐賀県の「富士町」です。それ以外の市町村と県名を挙げると、富士川町(静岡)、富士市(静岡)、富士宮市(静岡)、富士見市(埼玉)、富士見町(長野)、富士見村(群馬)、富士吉田市(山梨)、富士河口湖町(山梨)の八つで、合計10ヶ所となります。
全国の○○冨士
日本の国立公園の九割が火山である。いずれも噴き出した溶岩と火山礫が交互に層をつくって円錐状になった成層火山と呼ばれるもので、火口の位置が動かなければ富士山のようにバランスのよい形となる。教科書では「コニーデ式火山」と教えていた。代表的な成層火山としては、北海道から蝦夷富士「羊蹄山」。津軽富士「岩木山」。南部富士「岩手山」。山形の出羽富士「鳥海山」。中国・四国地方の伯耆(ほうき)富士「大山」。そして九州地方の薩摩富士「開聞岳」などがあります。
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富士山最初の登山者は?
古代の富士登山については多くの伝説が伝えられており、最初の登山者は明らかになっていない。古くは、聖徳太子が甲斐の名馬「黒駒」を駆って登山した伝説や、修験道の開祖・役の行者の登頂、秦の始皇帝の命を受けた徐福が不老不死の霊薬を探しに冨士に登ったなど、様々な伝説がある。だが、実際に登山した記録としては、当時の大学者であった都良香(みやこのよしか・834~879年)が書いた「富士山記」が最古ではないか、と言われています。
富士山最古の登山記録
富士登山の最古の記録としては、平安時代初期、当時の漢学者で文人だった都良香(みやこのよしか・834~879年)が書いた「富士山記」(本朝文粋)がある。その中に富士山頂の様子が書かれている。『・・・頂上に平地あり、広さ一里ばかり。その頂の中央に窪み有りて、体水甑(かたちすいそう・ものを煮るコシキ・蒸し器)の如し、甑(こしき)の底に神しき池あり。池の中に大きなる石あり、石の体驚奇なり、あたかも蹲虎(うずくまる虎)の如し、またその甑の中に、常に気有りて蒸し出ず。その色純らに青し・・・』云々とあり、平安の初めに実際に富士登山に成功した者がいたと考えられています。
富士山に初めて登った女性
富士山は、平安時代から多くの信仰の山と同じく女人禁制とされてきた。ところが、江戸時代の1832(天保3)年、江戸の高山たつが旧暦9月26日(現在の10月下旬)、初めて登頂したと言う。たつは、男装して富士講行者に紛れるようにして吉田口から登った。江戸時代には女性は吉田口登山道の二合目にある御室浅間神社(後に富士河口湖町勝山の里宮に移った)までしか登れなかった。そのために神社南東1㎞上に『女人天拝所』が設けられていた。
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富士山に初めて登った外国人
外国人として、初めて富士山に初めて登ったのは、英国初代公使のラザフォード・オールコックだ。1858(安政5)年、日本は鎖国政策を解いて開国。続々と外国人が日本に住むようになり、その中には、自国での趣味であった登山を楽しむ外国人もいた。1860(万延元)年7月19日、尊皇攘夷運動の活発な時期、幕府は百人近い護衛をつけて富士宮の富士山本宮浅間大社から村山口に到着し、7月26日ついにオールコック一行は富士山登頂に成功した。
冨士に見せられた男・ソロモン
富士山に魅せられて、富士山麓に初めて洋式ホテルを建てた男の名はソロモン。彼は船員だったが航海の途中、ソロモン群島にとどまったのが愛称「ソロモン」の起こりだという。1892(明治25)年ごろ日本に来て、富士山に魅せられ、その周辺を詳しく調査した。1895(明治28)年、精進湖畔の宇ノ岬に県内初の外国人専用の洋式ホテル「精進ホテル」を建設。本名ハリー・スチュワード・ウォールズ。日本名星野芳春という。イングランド南部生まれのイギリス人。
日本一でなかった富士山
富士山が「日本一高い山」であることは言うまでもないが、1895(明治28)年から1945(昭和20)年まで、日本一の山ではなかった。台湾を日本の台湾総督府が統治していた時代には、台湾島の中央部にある標高3952mの玉山(ゆいしゃん)(旧称・新高山・ニイタカヤマ)の方が富士山よりも標高が高いことから、当時の教科書などには、新高山(玉山)を「日本一高い山」とした記述もあった。
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富士山にある三つの幻の水
(1)幻の池/春、山頂の雪が溶け始めると富士山頂に「コノシロ池」と呼ばれる池が突如として出現する。あの乾いた溶岩群のなかに水が溜まるのが不思議だ。
(2)幻の滝/富士山中腹の沢と呼ばれるところに雪解け水があふれ、突如として滝が現れる。一時的な現象なのでなかなか出会うことはない。
(3)幻の湖/精進湖近くに赤池と呼ばれる場所があり、富士五湖の水位が上昇した時だけ湖が出現する。一度出現するとしばらくは枯れないといわれる。
幻の湖・富士六湖の年
富士五湖のひとつ、精進湖の近くに「赤池」と呼ばれる場所がある。大雨が続き富士五湖の水位が上昇した時だけ出現する湖がある。大きさは長軸 約100m、短軸 約20m~30m、深さ 約7m。通常は窪地になっていて水はありません。精進湖には湖水の流出口がありません。そのため水位が上がると地下水が「赤池」にも湧き出して、水が溜まるとみられています。この年を富士五湖ならぬ「富士六湖の年」と呼ばれています。
まるび(丸尾)って何?
富士北麓には「丸尾(まるび)」が付く地名が、数多くあります。富士吉田市の剣丸尾、桧丸尾、土丸尾、山中湖村の鷹丸尾、鳴沢村の前丸尾、ジラゴンノ丸尾などです。「丸尾」とは、富士山の新しい溶岩流の内、中腹から噴出して、流れ下ったものを指しています。漢字は当て字ですが、語源は「転び(まろび)」で、溶岩がゴロゴロ転がっている様子を言い表したと言うのが有力とされています。この「まろび」が「まるび」に変わったようです。他県の溶岩には「丸尾」が付く例がなく、富士北麓独特な方言が付けられています。富士最大の溶岩流「青木ケ原丸尾」は、特別に通称名「樹海」と呼ばれています。
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「合目」って、どうして決めた?
夜、登山する時に灯した明かりの油が一合分、消費された場所が一合目と言う説。それと道しるべに撒いた米が一合なくなった所が一合目と言う説。梵語の「劫」から来ているなどが、もっともらしく言われていますが、そう都合よく頂上で十合全部が無くなる筈がありません。当たり前すぎますが、登山口(馬返し)から頂上までの距離と難易度を十等分したものを合目と言うのが妥当でしょう。したがって、登山口の高さが違えば、合目の高さも違ってきます。
富士見酒って、どんな酒?
江戸時代、江戸には良い酒がなくて、主に関西から運ばれていた。はじめは馬に積まれ、のちには廻船で運ばれるようになり、これを「下り酒」と洒落た言い方をして、富士山を見て来た酒。すなわち「富士見酒」と呼んだ。杉の樽の中で、酒はほど良く杉の香りを取り込み、また揺られることで、練れていい味になった。のちには関西で消費される分も、わざわざ船で富士山の近くまで運び、また引き返すという事もしました。「くだらない」の語源も、この「下り酒」から来たという説もあります。
不知火型土俵入りの富士山
山中湖畔から見る富士山は、富士山の左右の稜線にひとつづつ、コブが見える。向かって右側のコブは、最初の富士山。つまり70万年前から20万年前ごろに、海の中から噴火して出来上がった「小御岳火山」である。左側のコブは、富士山の最後の噴火、300年前(1707)の「宝永火山」である。この左右のコブがある富士山は、人により好き嫌いはあると思うが、山中湖に住む地元の人たちは、「大相撲の不知火型の土俵入りの最後の競り上がりを表す富士山」として、自慢の富士山なのだ。
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銭湯の富士山
銭湯といえば、浴槽背後に広がる富士山の雄大な壁絵。ある意味、日本の風呂文化の象徴でもあった。この富士山のペンキ絵は、大正元年、東京の神田猿楽町の「キカイ湯」が始まりで、静岡県掛川出身の川越広史郎氏の筆によるものです。昭和46年に「キカイ湯」は廃業となりましたが、その地のビルの前に「ペンキ絵発祥の地」の碑が建っています。キカイ湯のキカイとは、船舶のボイラーを風呂釜に使用したためということらしい。
一番早い初日の出は?
日の出の時刻は緯度、経度と標高が大きく影響する。元旦の太陽は日本の南東から昇ってくるから、日本一早い初日の出は、最東端の「南鳥島」ということになるが、ここは無人島。最南端の「沖ノ鳥島」も無人。この両島を除くと、日本最初の初日の出は富士山頂となる。富士山は、犬吠崎より西に200㎞にあるにもかかわらず、高い分だけ遠くが見渡せ、日の出も早くなるという訳。逆に富士山の西麓、富士河口湖町富士ケ嶺(旧上九一色村)は、富士山に遮られ初日の出が遅く、午前8時ごろになる。
富士山麓のモグラ戦争
富士山の地中でモグラの闘いが繰り広げられているという。一方の「アズマモグラ」は、かって日本全国に分布していた種族。体長は約14㎝で、体重60gほど。かたや「コウベモグラ」は、アズマの後に大陸から入ってきた種族。大ぶりで体長約16cm、体重100gほど。コウベが体力にものをいわせて九州から徐々に東へ勢力を広げ、アズマは後退した。現在は、富士山地の下の硬い溶岩などがコウベの進出を拒み、抗争は、朝霧高原辺りで膠着状態となっている。
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インデヤって何?
山梨の甲州特産品に「甲州印伝」がある。粋な甲州印伝は、戦国時代に武具の素材として好んで使われた鹿皮に、漆で模様を付けたもの。地元では、「インデヤ(印伝屋)」と呼ばれ、南蛮貿易によつてインドからもたらされたと言われているから「印伝」。印伝で良く見る絵柄に蜻蛉(トンボ)がある。トンボは前にしか飛ばず「勝ち虫」と呼ばれることから、縁起が良いと特に好まれる絵柄だと言われています。
江戸時代のトラベラーチェック
江戸時代、硬貨ばかりで紙幣のない時代、「富士参拝登山」や「お伊勢参り」など、長期の旅には、たくさんの硬貨は重いだけでなく、無用心でもあった。そこで前もって支払いを済ませ、旅先で少しづつ現金化するという「為替屋」があった。現在のトラベラーチェックが、すでに江戸時代に存在していたわけです。
富士八海と富士八湖
富士五湖という呼称は、徳富蘇峰が昭和の初めに名付けたもので、大正末期までは泉水・山中湖・明見湖・河口湖・西湖・精進湖・本栖湖・四連湖を合わせて「富士八海・富士八湖」と呼ばれるのが一般的だった。富士信仰が水量の多寡よりも「八」という数字に重きを置いたためらしい。この富士八海を巡る信仰の行事が「内八海巡り」で、富士山登拝、御中道周布とともに富士講の三大修行のひとつだった。
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駿河と甲斐のどちらの富士が美しい
山梨県側から見る富士と、静岡県側から見る富士山は、どちらが美しいか?永い間の永遠のテーマであった。しかし、実は江戸時代にすでに決着がついていた。江戸時代の狂歌師・大田蜀山人(1749(寛延2)年~1823(文政6)年)の歌に『娘子(むすめご)の 裾をめくれば 富士の山 甲斐(かい)で見るより 駿河(するが)一番』とありました。
富士北麓に鶴の里がある
中国を初めて統一した秦の始皇帝は「徐福」に命じて、東海の果ての蓬莱の国(日本)の芙蓉山(富士山)に不老不死の妙薬を探しに行かせた。徐福は数千の家来と共に船に乗り、困難な旅の末、ようやく富士山の麓にたどり着きました。しかし、そこに始皇帝の死を告げる使者がやって来ました。一行は困難な旅を思い帰国せず、この地に住み着き、中国の土木や織物の技術を周辺に伝えた。やがて年老いた徐福は鶴となって、この地を見守り、いつしか人々はこの辺りを「鶴の郡」と呼ぶようになり、現在の「都留郡」になったと言われています。
不老不死の妙薬・コケモモ
今から約2200年前(紀元前200年)、秦の始皇帝(BC221~206年頃まで15年間の王朝)は、不老不死の霊薬を探すため、家臣の徐福に命じて、数千の家臣と童男童女に百職百工を伴って日本に遣わした。その徐福が苦労の末、やっと見つけた不老不死の霊薬が富士山に自生するコケモモだったと言われています。その後、始皇帝の死を知った徐福は帰国を諦め、この地に残り、優れた土木や織物の技術を伝えた。その子孫たちが「秦(はた)」「羽田」「波多」氏を名乗る人たちだと言われる。コケモモはこの地方では、ジャムやジュースなどにしたり、「はまなし」の名でお菓子になったりしています。
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百済人を甲斐に移す
山梨県の郡内には「丸」の付く山が多く、大菩薩連峰南の大蔵高丸、白谷ケ丸、丸山、鳥屋ケ丸、犬目丸、本社ケ丸など、20の山があります。全国でも珍しい集中度で、山梨県の国中にはほとんどない。「マル」は、古い朝鮮語の山や峰を指す言葉が語源。その根拠として、持統天皇紀や続日本書紀に「百済人を甲斐に移す」と書かれている事を挙げている。600年代後半から700年代後半にかけ、多くの百済人が桂川流域に移り住んだ。その渡来人が付けた山名であることは、ほぼ定説となっています。
一冨士、二鷹、三茄子とは?
もともと駿河の国(現静岡県)のことわざで、縁起の良い夢を順に並べていう言葉である。様々な説があるが、そのひとつを紹介いたします。徳川家康が駿河城に居る時、初ナスがあまりにも高かったため、その値段の高さを「まず一に、高きは冨士なり、その次は足高山(愛鷹山)なり、その次は初茄子」と言い表したと言われています。ちなみにもうひとつ、家康がらみで言うと、天下を取った家康の好物を単に並べただけと言う説もあります。「一富士山、二鷹狩り、三茄子」と言う訳。
富士山をペンキで赤く塗り潰す作戦
第二次世界大戦中、アメリカ軍では富士山を赤いペンキで塗りつぶす作戦があった。CIAの前身『戦略情報局』内には、大戦当時『神経戦部』という部署があり、日本人の士気を落とす作戦が練られた。日本人がこよなく富士山を愛している事に目を付け、その富士山を赤く染めれば日本人の士気を下げる事が出来ると考えた。作戦にかかるペンキの量を計算したところ、約12トン。更にそれを運ぶB29が約3万機必要となった。想像を超える事実に上層部は即座にこの作戦を諦めたという。
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山頂へのトンネル・ケーブル計画
1960年代初め、富士急行によって富士山の山頂までトンネルケーブルを走らせる計画があった。計画によれば地質的に最も安定した富士山南西斜面の下をくり抜くもので、富士スカイラインから南側に始発駅を設け、途中、八合目で乗り換える形を考えていた。路線は最深部で地中35.4m、浅いところで地下6.6mを進むケーブルは、山頂まで12~13分で行く。当時のキャッチコピーは『ハイヒールで日帰り登山』だったが、自然保護を配慮して計画は中止になった。
富士講とは何か?
富士講の「講」とは、民間信仰のひとつの形態。宗教上の目的を達成するために信仰を同じくする者が寄り合って結成している信仰集団を指す。富士講とは、民間の山岳信仰で、富士山を登拝することを目的として結成された江戸時代に一般庶民にまで広く浸透した。近年以降は「丸山教」や「扶桑教」などの教派を作り、それぞれの集団で登拝した。他山の講としては、「御岳講(木曾の御岳)」などがある。
お札になった富士山
写真家の岡田紅葉(1895~1972年)は、早稲田大学在学中の1914(大正3)年、初めて富士山の写真を写し、その虜になったと言う。その後、紅葉は生涯に十万枚を超す冨士の写真を撮ったといわける。その努力と執念が数々の名作を生んだ。『忍野冨士』は有名だが、本栖湖畔からの富士山には定評がある。旧5000円札と新1000円札の裏に描かれた逆さ富士は1936(昭和11)年に発行した『富士写真集』の中の作品を参考にしたと言われている。
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逆さ冨士のミステリー
旧五千円札と新千円札に富士山が描かれて入る事はご存知だと思いますが、本栖湖に写る「逆さ冨士」。このお札の上下を逆さまにして見ると、富士山とは異なる形の山が現れる。日本人が「逆さ冨士」だと信じてきたこの山は、エジプトにあるシナイ山の姿だと言うミステリー。世界の金融を支配するのはユダヤが、とうとう日本の日本銀行までも、その支配下に置き、密かにユダヤ教のメッカのひとつ「シナイ山」を人知れず図柄の中に描きこんだと言うミステリーなお話でした。表の野口英世の顔の右半分を隠すと、やはりユダヤ人の顔が現れる(?)。
噴火を鎮めるための浅間神社
西暦864(貞観6)年5月、富士山が大噴火を起こし、約48㎞四方を焼き、甲斐国から溶岩があふれ本栖湖を埋めた。さらに7月、甲州国からも溶岩が本栖湖、せの海を埋め、人家を没して火炎は河口湖に向かったという。世にいう「貞観の大噴火」である。これに恐れをなした朝廷が「祭礼の怠慢のため神明がたたりを発したのだ。」と警告。翌年に浅間神社を祀らせた。つまり今でも浅間神社は、富士山の噴火を鎮めているのだ。
ドッコイショ(六根清浄)とは?
江戸時代「富士講」と呼ばれる信仰にもとづいて富士登山を行う事が盛んでした。「先達(せんだつ)」という名のリーダーに導かれ、白装束に身を包み、手には金剛杖を持ち、『六根清浄、お山は晴天』などと唱えながら山頂を目指した。六根(ろっこん)とは、「目、鼻、耳、舌、身、意」つまり、人間の知覚のことです。清浄(しょうじょう)とは、六根から生じる様々な欲望を捨て、清らかな富士登山をするという意味。現代の『ドッコイショ!』という掛け声は、この六根清浄が訛ったものと言われています。
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ジラゴンノは白亜紀の恐竜?
ジラゴンノとは、富士北麓にある鳴沢村にある字名のこと。国道139号線沿いにある「道の駅なるさわ」周辺。何とも神秘的な響きが耳に心地好く感じられるこの地名、その由来には諸説あり、「コンノ」は富士山の溶岩台地にある低木地帯を指す言葉とされ、神聖な山の裾野という意味の「神野(かむの)」が変化したと考えられる説。噴出した白い溶岩「シラ」で覆われた神野の意か。村の開拓者とされる「次郎権現野(じろうごんげんの)」が訛ったという説もある。それにしても何故、カタカナなのか?白亜紀の恐竜を思わせる名は謎に包まれている。
山梨独特の苗字「藥袋」
山梨県独特の名字に「薬袋(みない)」さんがある。晩年病気がちだった武田信玄が身に付けていた薬袋を落としたところを家来に見られてしまい、病気である事を知られてしまうと困るので口止めのため「薬袋は見なかった事にしろ」と云う意味で、名字を与えたと言う説や、「薬袋を見ない」ほど健康な村(現早川町薬袋)に由来すると言った説がある。他に山梨県独特の名字には、「貴家(さすが)」「流石(さすが)」「功刀(くぬぎ)」「神座(じんざ)」「日本(ひのもと)」「輿水(こしみず)」「輿石(こしいし)」「保延(ほのべ)」「鬢櫛(びんぐし)」などがある。
洞穴と洞窟はどこが違うの?
富士山麓には「風穴・氷穴」と呼ばれる溶岩洞穴が数多く見られます。その数は80数洞が確認され、長さ10mほどの小さなものまで含めると、ゆうに100を超すといわれています。洞穴も洞窟も、物で囲まれた空間を意味し、「洞」は、一般に自然に出来た大きいものを表現する。「穴」は、自然と人工、大小を問わず、この種のものの総称です。「窟」は、イワヤと読み、岩屋を意味する。人間が住んだり、寺院を建てたり、仏を祭ったりする程度の大きさを持った浅い洞穴に、この字を当てている。ちなみに文化庁指定史跡名勝天然記念物に「洞穴」はあっても「洞窟」の名はない。
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富士山に湧き水はない
富士山といえば「富士の湧き水」のイメージが定着していますが、実は、富士山には水の流れる沢も川もなく、池や湧き水もありません。富士山がどこまでか、という定義にはいろいろな意見があるが、富士山の砂礫や溶岩は、玄武岩と言う水をよく浸透させる性質を持ち、降った雨や雪はすべて地下に吸い込まれ、西から時計回りに、西の富士宮の浅間大社の湧玉池、白糸の滝、北に富士五湖、東に忍野八海、南に三島の湧水群など。湧水の湧く水の名所の内側が富士山なのです。
富士山のバナジウム
富士山の水には、バナジウムが多量に溶け込んでいる事が、近年知られてきた。玄武岩の溶岩層を通過している間に染み込んでいったもの。玄武岩は地表に噴出したマグマが瞬間的に固まってできる岩石で、豊富なバナジウムを含んでいる。そのバナジウムは、人間の体内で血糖値を下げる役割のインスリンと同程度の働きがあると云われています。最近、アサヒビールから「富士山のバナジウム水」ほか、多くのメーカーからミネラルウォーターとして売られています。
マグロ消費量日本一は山梨県
山梨県は全国マグロ消費量日本一である。山梨のお祝い事や、人寄せの時には必ず煮豆、きんぴら、マグロのブツ、手打ちうどん、まぜご飯が定番。昔(40年位前)、マグロは沼津港、清水港、焼津港などから入ってきていた。大物(50キロ以上)は、東京の築地に卸され、小物(30キロ以下)は近隣の山梨に入荷していた。大物マグロは脂のノリが良いのですが、赤身は小さなマグロの方がキメが細かくて、舌触りが良く、食べるとはまりやすいそうです。他県では刺身と言えば、マグロと白身魚(鯛や平目等)の両方を指すが、富士吉田では刺身といえばマグロの赤身だけを指す。
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山梨出身力士「○○富士」
富士山は日本一を表すので、相撲の四股名(しこな)によく使われる名だが、じつは山梨県出身の力士が多いという。戦前に活躍した富士ケ嶽(のちの若港)を始めとして、「富士」の四股名を全国にとどろかせたのが、幕内優勝をした押し相撲の富士錦。小結まで昇進した富士錦を慕って、山梨から入門する力士が続き、ほとんどが「富士」を用いた。(富士晃、富士昇、富士桜など)。意外にも、同じく富士山を擁する静岡県出身の力士は少ない。
青木ヶ原樹海が自殺の名所となった訳
青木ヶ原樹海と言えば「自殺の名所」として語られることが多い。樹海が恐ろしい所として一躍有名になったのは、今から50年前。昭和34年(1959)に、当時の週刊誌「女性自身」に一年にわり連載された松本清張の小説「波の塔」による。小説の中のヒロインが、ラストシーンで西湖のほとりで睡眠薬を飲んで樹海へ消えると言うラストシーンが、当時の若い女性の間で評判となり、自殺の名所として全国的に有名になった。その後、松竹でヒロインを有馬稲子、相手役の若き検事役に津川雅彦で映画化され、その後もたびたびテレビドラマ化もされた。
「無尽会」って何?
山梨県内を歩くと、しばしば「大小宴会・無尽会承ります」などの看板を掲げた飲食店が見受けられ、山梨では馴染み深いものとなっています。無尽講、頼母子講(たのもしこう)とも言う。鎌倉時代に生まれたとされ、牛や馬を共同で調達したり、労動力を提供し合ったりなど多様な形態が存在した。数人から数十人が集まって定期的に掛け金を払い、抽選や入札で金額を受け取る。お金に困った人や特定の人物を優遇、救済する一種の庶民金融の組織でした。それがやがて相互銀行(現在は地方銀行)などの地域金融機関に発展した訳ですが、山梨県内には今もその「無尽」が存在しているのです。「無尽」が特に盛んなのは、甲府市周辺と富士吉田市周辺である。
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綱吉の不人気は富士山の噴火のせい
徳川五代将軍・綱吉の治世は、優れた経済政策のもと、近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉といった文化人を生んだ元禄期の好景気の時代だった。それなのに「生類憐みの令」など悪政の将軍として忠臣蔵や水戸黄門のドラマの中で何かと評判が悪い。その原因のひとつに元禄16年(1703)に起きた元禄大地震、つづく宝永4年(1707)の宝永大地震、・富士山の宝永噴火など度重なる自然災害がある。現代では治世の評価を左右するものとは考えにくいが、当時は「天罰」と受け止められても仕方ないものであった。
富士山頂には8つの峰がある。
富士山は、古来より神仏の住む霊山として崇められてきた。その山頂は、阿弥陀如来の浄土や八葉九尊という信仰による世界観がありました。八葉九尊の八葉とは仏が坐す蓮華座に例えたものです。この蓮華の八枚の花弁を山頂の峰々になぞらえて、それぞれに仏を配したものです。また「芙蓉峰」「芙蓉八朶」など、蓮の花弁に例えた八葉と関連する富士山の異称もみられます。このことから山頂を「八葉の峰」とするようになったと解釈されています。これは峰の実数ではなく、あくまでも「八葉」という観念的な解釈に由来しているものと考えられます。
富士山頂は、かって日本最大の賽銭箱だった。
富士山そのものを御神体と崇めていた信仰登山の時代、無事登頂を果たした人々は、さまざまな御利益を願って、富士山頂の火口にお賽銭を投げ入れていた。つまり直径800m、深さ200m、東京ドーム約40個分の火口そのものが巨大な賽銭箱だったのだ。今も火口から江戸時代の古銭が発見される事があります。なお、現在では自然保護の観点から火口にお金などの異物を投げ入れてはいけません。
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富士の風穴が江ノ島につながっている話。
富士山の「人穴(ひとあな)」と呼ばれる火山洞穴が、神奈川県の江の島に通じているという話。鎌倉時代の初め建仁3年(1203)に富士山麓で源頼家が巻狩りを行った際、家臣の仁田忠常(新田四郎)に人穴探検を命じ、家来とともに人穴に入った新田四郎忠常は、浅間大菩薩に導かれ、富士山の地底にある地獄を巡ったという話が基になったといわれているが、実際には当時の軍記物語の「曽我物語」や「吾妻鑑」「富士の人穴草子」にも、その記載がありません。鎌倉時代、富士山に対する信仰心から、当時の坂東武者たちが、己の基盤と繋がっているという伝説を作り上げたものと思われます。
富士山は一夜のうちに湧出した?
今から2300年前、孝安天皇92年に近江の国で大地震があり、国の二割が陥没するという出来事があり、一方、駿河の国では激しい地震と共に地面が持ち上がり、富士山が誕生したという話が、平安時代から鎌倉時代初めにかけて流布された。陥没した場所が琵琶湖で、一夜のうちに富士山ができたとする「富士山一夜湧出説」は、江戸時代にはかなり広まっていました。実際には富士山の体積は、琵琶湖の容積の50倍。すなわち琵琶湖を50回も埋められる量です。よく例えられる「東京ドーム」でいうと約110万杯という膨大な数字になります。
もうひとつの一夜富士物語
本栖湖は昔、アマンジャクという大力の巨人が造ったといわれる。この巨人が富士の裾の広い野原を掘り、その土を「もっこ」に入れて担いで、駿河の海岸近くに捨てた。夕方からせっせと掘って、ふたもっこ空けたら今の富士山ができた。アマンジャクはもっと高くしようと、もうひともっこの土を担いで途中まで行くと、東の空が白らんで来たので、仕方なくそこに土を捨てて、精進の方へ逃げ去った。途中で土を捨てた所が小山になって、今でも「ひともっこ山」といっている。側火山の大室山である。また、アマンジャクが土を掘った跡に水が溜まって、今の本栖湖になったという。「ひともっこ山」という名称は各地に多く、これが所謂「一夜富士」の物語である。
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富士山の「御縁年」とは?
富士山には、御縁年と呼ばれる年に登山すると、一度で60回登ったのと同じ御利益があるとされる年があります。孝安天皇92年庚申の年、一夜にして富士山が現れたとする「富士山一夜湧出説」に基づき、各浅間大社が庚申年をもって御縁年として開帳を行い、登山者の誘因を図ったのではと言われています。富士講の開祖・角行の伝承の中でも、永禄三庚申年(1560)四月初申の日、仙元大日のお告げを受けたとか、元和六庚申年(1620)大行成就というように、庚申の年や申の日にこだわっています。富士講の人々にとっても庚申の年は特別な年で御縁年とされました。外国人最初の登山者オールコックの富士登山も、万延元年(1860)の庚申御縁年だった。
伊能忠敬は富士山に登ったことがあるか?
江戸時代、日本全国を旅して日本地図を完成した伊能忠敬は、実際に富士山にも登ったのか? 忠敬の測量は、海岸線や主な街道を図って地図を完成させた。従って、忠敬は富士山頂に登っていない。遠くから目標となる山や、離れた島などは、その方向に小方位盤(しょうほういばん)で観測した。箱根から富士山を図った値は3097m。三島から3603m。吉原から3659m。西倉沢村(現由比町)から3732mだったというから驚きである。
本栖湖の湖底には縄文人の遺蹟がある。
1990年ころ、富士五湖の一つ本栖湖に潜ったダイバーが、湖底でカメやツボの土器片などを発見し、本栖湖には水没した古代の集落があることが判りました。青木ヶ原溶岩流が本栖湖に流れ込み、水位が上昇、湖畔一帯にあった古代の集落を水没させてとみられています。1998年には、上九一色村(現富士河口湖町)が本格的な調査を行いました。その結果、湖底から、縄文時代から古墳時代前期(4~5世紀ごろ)の土器片など、約30点が引き上げられました。現在も多くの遺物が湖底に残っているとみられています。
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神となった伊奈半左衛門とは
宝永4年(1707)富士山の大噴火によって御厨地方(御殿場、小山町、裾野市の一部)は甚大な被害をうけた。小田原藩は救助に務めたが、復旧困難として幕府に御厨地方を返却した。一方、家も田畑も失った被災民は他に離散する者が続出し、飢え死にする者も数多く出た。幕府は時の関東郡代伊奈半左衛門忠順に命じて災害対策にあたらせた。着任した半左衛門は寝食を忘れて焼砂排除の指導にあたったが、工事は困難を極め作業は難工した。さらに食糧の欠乏に悩む被災民の困窮を見かねた半左衛門は、厳しい幕府の掟を破って駿河の幕府御蔵米を開き、餓死寸前の難民に施した。このため半左衛門はお役御免の身となった。しかし、職を賭して荒地の回復と難民の救済に尽くした半左衛門への敬慕の真情は、その後〝御厨の父〟として神に祀り、毎年祭礼を行って今日に至っている。
富士山頂に現れる幻の「コノシロ池」
富士山頂には、夏の一時期だけ現れる「幻のコノシロ池」と呼ばれる池が存在する。この池には想像上の魚コノシロが棲むと言う。実在のコノシロは、鮨ダネなどにされ、ニシン科の海魚。この魚を焼くと人を焼く臭いがすると言い、子のシロ(代)にしたと言う。説話に基づく江戸時代の武士は「この城を食う」と言って食べなかった。物類称呼の説では、胞衣とコノシロを地に埋めると子が成長するというので、子のシロ(代)の意からとみる。
富士山で最初にスキーをしたのは誰?
御当地検定の「こども富士山検定」に『富士山の山頂から初めてスキーをした人は誰?』という大変マニアックな問題が出た。答えはテオドール・ファン・レルヒ。明治の開国により多くの外国人が競って富士登山をしたが、明治44年(1911)4月、オーストリアの軍人であったレルヒは、横浜沖の海上から見た富士山の事が忘れられず、友人クラッツァーと復活祭の休日に登山。コースは御殿場→馬返し→太郎坊→頂上近くまで行ったが、雪と時間不足で登頂をあきらめてスキーで下山。これが富士山で初めてスキーをした記録となっている。
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金剛杖は富士のデフォルメ
富士講の身禄という行者によると、富士山には八角の金剛杖が良いという。この食行身禄という人物、物見遊山で富士山に登る風潮を嘆き、富士山の烏帽子岩で断食の末に死をもって人々の目を覚まそうとした人物。その彼の遺言に「八角の金剛杖を使って登るように」という言葉があったという。富士山には八つの峰と、八百八沢のうち八つの大きな沢がある。実は杖の側面の八角は、これらを表し、杖の頭が丸いのは、富士山のご神体を表すものだという。つまり、富士山の金剛杖は、富士山自身をデフォルメした杖だったのだ。富士講の正しい作法では、登りは杖を使って登るが、下りには、神聖な富士山頂の土の付いた杖の先を半紙で包み、水引で縛り、担いで下りるのが正しい作法とされている。
富士山がふたつに割れる時「大沢崩れ」
富士山の西側には大きく深い谷がある。一日平均10トンダンプ100台分の土砂が流失しているという「大沢崩れ」である。昭和42年(1967)当時の山梨県知事の『富士の大沢崩れが激しく、その姿が変わりつつある。』との発言がきっかけとなり、国会で取り上げられ、建設省(現国交省)の予算が付き、以降40年以上に渡り、大沢崩れの大規模な砂防工事が今も続けられている。富士山頂の火口まであと150m。このまま崩れ続ければやがて富士山はふたつに割れ、八ッ岳や愛鷹山のような姿になるのかもしれない。
富士山のミニチュア版「富士塚」
富士塚は、土を富士山のように盛り上げ、その表面を溶岩で覆った人造のミニ富士山。富士山の信仰集団「富士講」の講者たちが信仰の証として築造した。江戸時代を中心に昭和初期までに東京から神奈川、千葉、埼玉などに相次いで造られた。東京23区内には55の富士塚があったと言われているが、都市化の進展とともにビル建設などで取り壊されたり、削られたりした。江戸時代築造の富士塚の3分の1が姿を消したと言う。東京・練馬区江古田・豊島区椎名町・台東区下谷坂本の三つの富士塚は、国の重要有形民俗文化財に指定されている。
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富士山の雪形「農鳥」
冨士北麓で春の訪れを告げる富士山の残雪の雪形「農鳥(のうとり)」。4月から6月にかけて7合目の北西斜面、標高2600㍍あたりに、鳥の形をして現れる。田植えなどの農作業を始める目安となる事からこう呼ばれている。富士吉田や河口湖町の人たちは、昔から農鳥の現れる時期によってその年の天候や吉凶を占っていた。一月中に現れると凶作になるといわれ、平成15年は一月に現れ、この年は冷夏で凶作だった。
富士川町は静岡県? 山梨県?
富士川町って静岡県?それとも山梨県?。2008年までは静岡県。2010年からは山梨県。県境が移動した訳ではありません。2008年(平成20年)11月1日、静岡県中部にあった富士川町が隣の富士市に編入合併し、その名が消えた。それから1年半後、2010年(平成22年)3月8日、山梨県の南巨摩郡にあった増穂町と鰍沢町が合併して、新しく富士川町が誕生したって訳。全国に富士の名前をつけた市町村が多いが、同じ名前の町が県を越えて移動した珍しいケース。






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